性善説と性惡説

Cooldさんはこう書くがそれは法システムに限った話で、例えば募金って
システムなんかは性善説に拠っている。善意から金を入れる人がいると思わなければ
募金箱を持って立つ事はできないし、きっと募金がよき事に使われるだろうという
確信がなければそこに金を投ずる事もできないわけで。

言はれてみるとその通りです。我が國に於ける法しか見ないのは失敗でありました。どこの國かは失念しましたが、どこかイスラム教の國では刑務所でコーランを誦ませるさうです。要するに所謂「破門」の逆ですから、性善説的な刑罰と言へるでせう。
ただ、性惡説に據つて考へれば、募金といふのも出す人や集める人の惡の心が淘汰されたから出來るといふものであると考へられますので、募金といふ活動のあることは必ずしも性善説を傍證出來るとは限らないと思ひます。募金を例に取るならば、性善説の立場は「募金を出來るのはその人が元來持つ善の心に據るのだ」といふもので、性惡説の立場からは「募金を出來るのは、その人の惡の心が淘汰されたからだ」といふ風になるでせう。別に積極的に性惡説を推したい訣ではありませんが、さういふことだと思ひます。
實は性善説性悪説には大した差はなく、人が道徳心を養ふとはどういふことかといふのに對しての答へが、前者では「善の心を増やすことだ*1」と言ひ、後者は「惡の心を減らすことだ*2」と言ふ程度の差です。そこで、「どちらでもないよ*3」と言はれると、では道徳心を養ふとは何なのか、と問ひたくなつた訣です。

*1:人は元々善の要素が大きいから

*2:人は元々惡の要素が大きいから

*3:即ち『人輭つてそんな善とか惡で割切れるやうな單純なもんぢやないだらう?