今日、新年會があつて我が家に親戚一同が集ひ、姪の××ちやん(2)が來ました。可愛かつた。本當に可愛かつた。結婚してください。
××ちやんと間接キスをしました。どうだうらやましいだらうえへへのへ(虚)。
私は煙草を吸はないけれども、親戚にはヘヴィ・スモーカが多いのです。××ちやんに受動喫煙させないで欲しいと思ひました。

漢字制限

所詮漢字制限など不可能です。「叛」も「反」も「ハン」なのだし、何となく似てゐる*1「叛亂」は「反乱」、「謀叛」は「謀反」で良いと言ひますが、それでは「叛*2き亂す」「叛きを謀*3る」といふ訓讀が出來なくなり、文字から意味を推理することが出來なくなりませう。また、「犯罪」も「反罪」、「鈑金」も「反金」で良いことになりませうが、「反罪」では「罪を犯す」が分らなくなり、「反金」では「金を反らせる」といふことになつてしまひます。
榎村陽太郎といふ醫者が「稽古」は「啓古」で良いと言ひました*4が、それでは「古を啓*5く」となり、古いものから習ふのではなくて、古いものに教へるといふ全く逆の意味になつてしまひます。
「漏えい」「ら致」のやうな交ぜ書きが汚い、と感じるのも私だけではありますまい。
大體、人々は放つておけば矢鱈と難しい漢字を使ふといふ考へがをかしいのです。漢字を習ひたての子供ではありますまいし、自分が昨日今日辭書を眺めてゐて偶然知つたやうな難しい字や單語を遣はうとは、普通思はないでせう。人は暴走機關車ではありません。しかし、表音主義者は人を暴走機關車か漢字を習ひたての子供だと思つてゐるので、自分達は漢字制限といふストッパでそれを止めた英雄だと思つてゐるのです。

*1:「反對」といふ單語があるやうに、何か良くない感じがする

*2:そむ

*3:はか

*4:榎村陽太郎『日本簡体字のすすめ』

*5:ひら

内輪揉め

内輪揉めになりますが、『旧字旧かな入門*1』を批判したいと思ひます。

本書の第一章と第二章の内容を咀嚼しただけでは実のところ、通常のいかにも自然な「旧字・旧かな」の文章を綴ることはかなり困難です。旧字・旧かなの時代と今日とでは、「明朝体の字体」や仮名遣いだけではなく、用事・用語―表記法が変ってしまった語彙が多いからです。そういう訳で「新字体」の漢字を単に、本書に示した旧字体、あるいは辞書等で「旧字」「正字」等とされている字体へと機械的に差替えただけでは何やら正体不明の奇妙な「旧字交じり」の文章が出来上るだけです。*2

假名遣を變へなければそれは確かに何やら正體不明の奇妙なものが出來るでせう。
さうではなく書換へ語*3のことをいふらしいのですが、一ページ目*4を見て、首を傾げてしまひました。一ページ目で納得が行くものは「愛唱:愛誦」「愛欲:愛慾」くらゐで、後は「ああ:嗚呼・噫」「あいくち:匕首」「合い駒:間駒」「アイスランド:氷洲」「相手:對手」といつたものが竝んでゐます。「嗚呼」だらうが「ああ」だらうが「あゝ」だらうが良いと思ひます。言葉は變化するのです。嘗ては「Iceland」を「アイスランド」と書く場合より「氷洲」と書く場合の方が多かつた。しかし、今は違ふのです。それは國語改革のせゐではありません。自然な變化ではありませんか。
それらは書換へ語でも何でもないし、示されてゐるのは單なる古臭いだけの表記ではありませんか。正字正假名の價値は「レトロつぽい」ことですか。文法に忠實だとか、國語改革が餘りにをかしな方法で行はれたとか、さういふことはどうでも良いのですか。私はレトロつぽいもの、古臭いもの、保守反動的なものが嫌ひです。

*1:府川充男・小池和夫

*2:第三章の解説から

*3:「叛亂」を「反乱」にするやうなもの

*4:118ページ

今日も奇妙な訪問者

http://search.msn.co.jp/results.aspx?q=幼女大好き&FORM=SMCRT

私もです。

http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=ペトロ三木+超常&hc=0&hs=0

彼は論理といふものを知りません。東京大學を出て惡魔の證明も知らないなんて、一體何を勉強したのか云々。